フーコー 性の歴史I 知への意志

知への意志 (性の歴史)

知への意志 (性の歴史)

2004年の8月31日に読んだフーコーの「性の歴史I 知への意志」の感想文。ブログに残しておくため転載。次は、バタイユの「内的体験」を読むぞー。

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なんとも訳が読みにくいのか原文が読みにくいのかわからないけど、読みにくい本でした。わからないところも多々あって理解できているのかどうかあやしいけど、面白い!この本を読んで自分なりに解釈しようとすると何故かメルロポンティの衒学的な説明を自分で自分にしてしまう。今までメルロポンティの話がさっぱりわからなかったけれど、フーコーのこの本を読んで、なんとなくメルロポンティの思想がわかってきたような気がしてきた。現代の哲学者達が何故陰陽道に興味を示すのかもなんとなくわかったような気がする。結婚と異常性欲(近親相姦、フェティシズムホモセクシャルネクロフィリアペドフィリアなどなど)の関係を禁止と侵犯の関係でとらえるのではなく、カーテンでしきられた表と裏に区切られた襞の構造にその両者の関係がある。共時的に、どちらがどちらを説明することはできないが、通時的に、つまり歴史的に、考古学的に、結婚があってその裏の事柄として、異常性欲が誕生する。つまるところ我々の異常性欲は禁止されているのではなく、むしろ、結婚というメカニズムを通して、推奨されてきたともいえる。すると、異常性欲を欲する人が結婚を否定することはつまり本末転倒ともいえるのかな。面白いねぇ。