ヘーゲル「精神現象学」入門を読む

  ヘーゲル精神現象学」入門
作者 長谷川 宏
感想 原著の訳本を読もうとして途中で挫折。入門書を読もうとして、一年前にこの本を買って、またまた挫折。そろそろ読もうと思って、先週末に一気に読み切った。しかし、作者も書いているけど、ヘーゲルというと、ドイツ観念論の一派ということになっているけど、この本は、厳密なドイツ観念論と趣が異なっている。なんというかロマン的なのだ。それはいいのだけど、だから何?という感じなのだ。それから、なんとも難解でわかりにくい、ということばかり書かれるのもわかりにくい、という感じの本で、もっと作者が思い切って「精神現象学」を自分流で解説してくれればいいのに、と思った。ヘーゲルの何がいいのかよくわかりにくい。自分なりの解釈では、カントの後継の話になっていて、「物自体」を仮定する必要はない、ということと、カントのような現象からスタートして、非常にプリミティブな認識から、宗教にいたるまでの過程であり、仮説であり、推論の過程を記述した本ということかな、と。物自体はいらない、という話もとってつけたような感じで、カントに対する屁理屈のように思えて、どうでもいいことな気がする。最初のほうは、カントとあまり変わらずで、つまらないのだけど、そういうプリミティブな認識体がどうやって知を獲得するにいたるのかという、人間の学習の解釈ともとれるし、現象学的な推論の結果、人間の知を獲得する原理や説明を与えたものと考えられて、そういう意味では非常に面白い。重要な話としては、人間が単なる認識機械(よく比喩で出される潜水艦や宇宙探査船みたいなもの)を超えて、人間と人間の間で関係が構成されるとき、その共同体と個人の関係がどのように成長するのかといったことでしょうか。この個人と共同体の関係を「精神」と呼んでいて、個人が個人を「承認」することが重要であると。つまり、精神現象学の精神とは、共同体と個人の関係のことで、この本は、これらがどのようにして構成されているかということを考証する書物ということになる。共同体に埋没する個人は、自分自身が疎外されており、本来の自分ではない、という実存主義的な話もでている。こういうのが後の実存主義に影響を与えているんですかね。実存主義現象学的解釈のはしりという感じなのか。そして、宗教とは、ある個人(キリスト)にたまたま宿った精神である、と。最終的には、絶対知の話で終えている。絶対知とは、個人の認識や知識が、現象と違わないことを指していて、ようするに自分が考え推論した結果と現実が一致することで、知が世界にいきわたっているともいうらしい。このへんは「物自体」のカントとかなり趣が異なり楽観的というかいい加減というか、という感じがした。
 
ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)

ヘ-ゲル『精神現象学』入門 (講談社選書メチエ)